こんにちは、Makoです。
NHKの歴史探偵で銀河鉄道の夜が取り上げられます。まだ放映前なのですが、番組予告によると、銀河鉄道の夜で宮沢賢治が伝えたかった「希望」について考察がなされそうです。
銀河鉄道の夜は比較的短い作品で、書かれている内容も平易でありながら、難しい。。という声もよく聞きます。
そこで今日は、番組の解釈とは異なる視点になるかもしれませんが、Makoが知る限りの知識をもって、ポイントを読み解いてみたいと思います。
この記事は、こんな方におすすめ!
名作銀河鉄道の夜を何とか解釈して楽しみたい方
銀河鉄道の夜が伝えようとしている内容について誰かの感想を聞いてみたい方
私の個人的な読後感想ですが、宮沢賢治さんという方は、宇宙の仕組みというのがわかっていた方なのだろうなというのを感じました。Makoがこれまでに学んだ、宇宙の仕組みについても少し触れながら、なるべくわかりやすくお伝えしようと思います。
それでは、どうぞ!
他人と深い理解でつながることこそが人生最大の課題?
銀河鉄道の夜では主人公ジョバンニとカンパネルラの友情らしきものが描かれています。賢治はその友情の中にお互いを理解するという心のつながりを描き、それこそが人が生きていく中で身につけていかなければならないこととして、「それを伝えることを希望した」のではないかと思うのです。
この世界は、人と人との間には空間があり、それぞれが別個に離れて存在しているように見えています。ただ、賢治は、それは単に幻に過ぎないということを、本文の中の、過行く景色や、さっきまでそこにいたと思った人が、今みたらいなかったり、かと思えば、改めて見たら、またそこにいたり。
つまりは、こういった目に見えていることは、幻なんだということを伝えたかったのではないでしょうか?本文の中で、ジョバンニが目にしているように描かれていることは、「幻」として読み進めてみると、幻以外について語っている部分が見えてくると思います。
そこにこそ、賢治が伝えたかったことが描かれているのではないでしょうか。極論すれば、目に見えているようにい描かれている部分は、深い理解を要求しておらず、風景が流れ去るがごとくに読みながら過ぎ去らせてしまって構わないように感じるのです。
天の川が象徴する宇宙規模の一体感はどこからくる?
天の川は「銀河鉄道の夜」の中で、ジョバンニの肉体が目覚めている世界と、眠りについてしまった夢(?)の中の世界の両方に描かれます。それは、人が歩んでいく旅路、出会いがあり、つながっていく舞台となっています。賢治は、夢の中での銀河の旅を「夢の中での旅」として描いていますが、実は、夢の中と思えた世界こそが、本来の実体のある世界で、目を覚まして眺めている天の川の銀河こそが、幻の世界なんだということを伝えたかったのではないでしょうか?
おそらく、難解として感じられる表現で多用されるものに、「心が感じたままに目の前に現れる」という状況があります。わかる人にはわかるけども、そういったことを考えたことが無い人にとっては、とても分かりずらい部分です。
こころのはたらきなどを調べてみた人の多くは、目にする出来事は、「心が見たいと思っていたことが」映し出されるということを学んでいるようです。心にはそのようなことができる機能というのがあるということです。
「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただ動くようにきまっているからうごいているのだ」と、銀河を旅する中でジョバンニたちが聞かされる言葉があります。その声の主が誰なのかはわからないジョバンニたちですが、その声の主は、ジョバンニたちの心の中にいる存在ということなのでしょう。いわゆる、心の声といってもいいのかもしれませんね。
銀河鉄道の夜の中には、このような、「こうなることになっているからこうなるのだ」という部分が何度も出てきますが、それは、「心には、望んだものを映し出す力がある」ということを賢治が伝えようとしているのではないかと思うのです。
銀河鉄道の夜の中では「この汽車は実際、どこまででもいけますぜ」とか、「さっきから鶏が泣いています。聞こえなかったのですか?今でも聞こえるじゃありませんか」という鳥を捕まえることを商売にしている人がジョバンニたちに言いますが、ジョバンニたちにはきこえていませんでした。聞きたいという意志を持った時に初めて、それは「音として」存在するようになる。
心がそれを望んだときにはじめてそこに出現する。だから、銀河鉄道の夜の中では、さっきまであったものが急になくなったり、なかったものが急に現れたりするのです。その時、こころは、それが出現することを望んだのですねという風に理解して、そこを読めば、理解が深まるような気がします。
そして、賢治が伝えたいと希望したことというのは、「目に見えない世界にいる心というもの」に、そういう力があるとこいうことを知ってほしい。そして、力があるものこそが、実体であるといことを伝えたかったのではないでしょうか?
考えてみると、この肉体を使ってやることといえば、お粗末な出来損ないと呼べる結果ばかりを生み出します。(Makoの個人的感想です) それに対して、心が望むことが映し出され存在するということは、仕損じがないということにならないでしょうか?少なくとも賢治は、それを伝えたかったのではないかと思うのです。
なぜなら、ジョバンニたちも、色々なものを目撃しますが、「それを見たいと思ったことが見えた時もあれば、何も意識していないと思い込んでいたところで、意図していなかったものが見えたり」、つまり、心にそういう機能があるとしても、それを使いこなすレベルにまだ至っていない状況を、ジョバンニたちの中に描いたのだと思うのです。
カンパネルラの最後の行動「川での救助」が意味することは何?
銀河鉄道の中で繰り返し出てくる「教え」のような事柄の中に、「とにかく人にはやさしくすること。体に与えられた機能というのは、人にやさしくすることだけ」という意味合いが随所に盛り込まれているように思われます。
おおむね人にやさしくすることができるジョバンニたちは、夢の中で、どこまででも行ける切符を手にしているといわれています。逆にその列車には、行先に制限がつけられた切符を持った人々も乗っていたということでしょう。制限付きの切符を持った人は、どこかでその列車を降りなければならない。
賢治が伝えたかったのは、人に心底優しくできるようになれば、どこまでも穏やかな世界で生きていくことができるということを伝えたかったのではないでしょうか。そして、その穏やかな世界というのは、今の肉体の目が見つめる世界ではなく、銀河鉄道の夜の中では夢の中として描かれた世界。
ジョバンニは眠るという形で、カンパネルラは川に飛び込むという形で、それぞれに別の世界を銀河鉄道に乗って旅しました。そして、人にやさしくしなかったときに感じた心の痛みなどを改めて学びます。
賢治は人のために尽くす自己犠牲というものを伝えたかったといわれることがありますが、私はそうは思いません。これだけの理解を持った宮沢賢治が、そのような「つらい」事を薦めてくるわけはないと思うのです。
賢治が伝えたいと希望していたのは「体は優しくすることだけに使いなさい」。それだけだと思うのです。川に飛び込んだのは、その極端な例が象徴的に描かれただけで、そんなことを望んではいないと思うのです。単に「人にはやさしく」。そうしている限り、穏やかでいられるよと。
銀河の旅の中で、ジョバンニはこんなことを言います。「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕はたいへんつらい」この気持ちをジョバンニはへんてこな気持で、本当に初めての経験と語っています。
だから、ジョバンニは、どこにでも行ける切符を手にしていたのでしょう。そんなジョバンニでも、心はまだ間違いを犯すことがある。人のことを「邪魔」に思った。
もしかすると、まだそういう気持ちがあったがために、ジョバンニの肉体は目が覚めて、またこの世と呼んでいる世界で、つらい状況をもう少しの間見ることになっているのかもしれませんね。
宮沢賢治が銀河鉄道の夜で伝えたかった「賢治の希望」とは何か?のまとめ
NHK歴史探偵のなかで、宮沢賢治さんの銀河鉄道の夜がとりあげられました。このブログの中で記したことは、Mako個人の感想であり、歴史探偵が伝えようとされたこととは全く関係がありません。
しかし、銀河鉄道の夜は、宮沢賢治さんが目には見えない世界について、彼が知った全てを伝えようとしてひねり出した力作ではないかと思うのです。目に見えないことを理解するということは至難の業です。それを、まるで童話のように仕立ててでも、何とか伝えようとした。。それが銀河鉄道の夜だったのではないかと思います。
今日も最後までご覧いただいて、ありがとうございます。
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