宮崎吾朗監督によるスタジオジブリの映画『ゲド戦記』は、2006年の劇場公開以来、「惜しい!」という口コミを目にすることがあります。
原作では、全6巻中の第1巻を通じてじっくりと描かれる「影とは何か?」というテーマを、映画では約2時間の枠の中で表現しなければなりませんでした。それを考えると、まとめるのは至難の業だったかもしれません。とはいえ、せっかくの映画をより楽しむために、少し情報を補足してみるのも良いかもしれませんね。
そこで今回は、ジブリ版『ゲド戦記』をより深く楽しむために、以下のポイントについて考察してみました。
✅ 「影」とは何なのか?
✅ ハイタカとテナー、テルーとの関係は?
✅ テルーが竜になった理由とは?その意味を考察
それでは、それぞれのポイントを詳しく見ていきましょう!
『ゲド戦記』における「影」とは?
『ゲド戦記』の中で、「影」は重要なテーマとして描かれています。原作本1巻では「影との戦い」を本のタイトルにするくらいですから、超重要ポイントになっています。
影とは「もう一人の自分」
映画の中で、アレンは「影」に追われています。原作の「影との戦い」では、映画で大賢者となっているゲドがこの得体のしれない「影」におびえ、最後の最期でこれを克服する物語が描かれます。
では、この影とはなんだったのでしょう?この影は、彼の「もう一人の自分」、つまり心の奥底にある恐怖や欲望を感じている部分を指しているといわれます。
影は、原作においても映画のアレンの場合においても、心の中の闇を描いていくために使われた事象でした。アレンが父を刺してしまうという罪の意識や、世界に対する不安定な感情もこの影の存在を意識させることで描かれました。

原作では影はゲド自身が生み出した心の闇の分身のように描かれたね。



映画ではアレン自身の恐怖の象徴という感じかしら
宮崎吾朗監督が描く「影」とは?
Wikipediaには宮崎吾朗監督のインタビューによる内容として以下のような記述がなされています。
映画では悪役クモの仕業によって主人公の「心の光の部分」が切り離されて、光が肉体を追う影となってしまい、影は心の闇に支配されたアレンの実体と一つに戻ろうとして追いかけていたと説明されている。
引用元:ウィキペディア ゲド戦記(映画)
これはなるほど!もしかすると、人によっては原作よりわかりやすい変更かもしれない。いや、ことメッセージが「まずは心の中に闇と光が存在しているんだ」という理解を促すということであれば、原作の設定もいいでしょうし、宮崎吾朗監督の設定もありだと感じました。
仮に心が体の外に存在しているとして、そのこころが肉体をとりあえず使っているのだとしたら、心の光の部分でその体を使うのですか?或いは闇の部分で使うのですか?という問いかけは、とてもシンプルでわかりやすいようにも感じます。
映画のアレンの場合には、その光の部分がどこかに飛ばされてしまった状態とか、心の中の闇と光のうち、闇の部分に意識が集中してしまい、光の部分に意識が及ばなくなってしまった状態と考えればよいのかもしれません。
でも、本当の実体は光の部分なわけですから、その光の部分は、闇の部分にいいように使われさまよっている肉体を追い続け、何とかその意識(もしくは意志)を光にむけさせようと頑張っている。でも、心の闇の部分の立場に立ってみたなら、せっかくその闇の心の思うがままに体を操り、うまいことやっているのに、それを阻止しようとする「光」がうざい存在となるのかもしれませんね。
心の闇の部分が優勢になった状態からみて、心の光の存在は闇を脅かすものとして「影」という扱いになったのかもしれませんね。
一方で原作の「影」は文字通り心の闇の部分として描かれましたから、どちらかというと「影=光」よりは理解がしやすかったかもしれませんね。
でも、個人的には、原作は心が肉体の目に見える色々な事象を生み出しているという理解に基づいた話になっているように感じましたね。
「目の前に見えることは心が生み出している??」というなかなか理解の及ばないことも含んでいるようにも思われ、それはそれで難しく感じます。
「心の闇と光」というのが本当にあって、それをもっと意識した生活をおくらなければならないよ!的なメッセージを伝えるためには、宮﨑吾郎監督の考え方の方が「不可思議」な要素が実は取り除かれていて、学びやすいのかもと思ったりしました。
ハイタカとテナーの関係はいつ築かれた?
ハイタカとテナーが初めて出会うのは、シリーズ第2巻『アチュアンの影』です。テナーは「アチュアンの墓所」の大巫女アルハとして育てられ、外界との接触を禁じられていました。ハイタカは、墓所に隠されたエレス・アクベの腕環を探すために墓所を訪れ、そこでテナーと出会います。当初、テナーはハイタカを敵視しますが、次第に彼の人柄や目的に触れ、信頼関係を築いていきます。
映画『ゲド戦記』では、テナーがハイタカの真の名前である「ゲド」を知っている理由について、明確な説明はされていません。ゲドというのはハイタカの真(まこと)の名前。真の名前を告げるというのは、その相手に自分の命を預けるのにも似たほどの重要な意味があると原作からは読み取れます。
映画ゲド戦記でも、その重要コンセプトは生かされていると思いたいところなのですが、ここで少し疑問視される声も聞かれます。映画ゲド戦記は主に原作の第3巻をもとにしているといわれています。2巻においてはハイタカのことを「ゲド」と呼ぶ関係には至っていないといわれますから、この点の矛盾を指摘する声もあるようです。
管理人的には、これに関しては、ストーリーが原作に忠実に描かれているわけではなく、ハイタカにとっての安息の場所として描かれるからには、テナーとの関係はかなりの信頼関係が出来上がっているものとしたかったのだろうと考えています。
アレンやテルーの成長というのが重要テーマといわれていたりしますから、それを導くハイタカやテテナーの関係は彼らを支える安定した拠点として描くために、相当な信頼関係があるものとして描く必要があったのだと思われます。映画の中で詳しい説明に通じる描写はなかったと思うのですが、「真の名前」を口にすることは、それだけでとても強い絆を表現することにつながっています。
テルーが竜になった理由
テルーが竜になった理由も、映画の中ではわかりにくいポイントの一つといわれています。ちょっと唐突すぎた印象でしょうか。この点に関しても、ネット上では考察があげられています。
人間界で抑圧されながら生きてきたが、クモによる攻撃を受けたことで怒りが解き放たれ龍の姿になったのでは?
凡そ皆さんの考察は一致している感じですね。この点に関しては、原初には設定が無く、監督や製作者さんのインタビューなどに正解を探すのですが、この点に関する回答は見当たりませんでした。
ネット上の考察を取りまとめてみると、以下のようなことになりそうです。
テルーが竜になった理由は、彼女が竜の血を引く存在であり、本来の姿を取り戻した可能性が高そうです。
そのきっかけとなったのはクモからの攻撃で、それに対する怒りによって、本来の姿に戻るスイッチが入ったということかと思います。
この点に関しては、管理人もきっとそうなんだろうなと感じています。でも、実際のところ、「怒り」が頭の中を占領してしまった場合には、本来の自分とはかけ離れた存在になりそうな気がするんですけどね。
本来の自分に戻るとすれば、もうその状況への執着とかそういうのがなくなったときの方が、狂ったように叫びまくる自分から、本来の穏やかな状態に戻れるような気がするのですけど。
そう考えると、クモによる攻撃は本当に観念する状況にテルーを陥れ、テルーは執着を捨てたことで、奇跡的に本来の自分の姿(竜)にもどったという線もあるかもしれないなと思っています。
まとめ
- 「影」とは何か?
映画『ゲド戦記』では、「影」はアレンの内なる恐怖や罪の意識を象徴するものとして描かれています。原作ではゲド自身が生み出した心の闇の分身とされており、映画と原作で解釈に違いがあるが、どちらも「心の闇と向き合うこと」がテーマとなっている。 - ハイタカとテナーの関係
原作では、2人の出会いは第2巻『アチュアンの影』で描かれており、信頼関係が築かれる過程があります。映画では明確な説明はないが、ハイタカにとってテナーは安息の場となる重要な存在として描かれており、あえて、信頼の証である「ゲド」という真の名前で呼ぶシーンが入れられたのではないでしょうか。 - テルーが竜になった理由
彼女は竜の血を引く存在であり、クモによる攻撃を受けたことで、本来の姿に戻った可能性が高いと考察されます。怒りや解放によって変化したという解釈が一般的ですが、執着を捨てた結果、本来の自分の姿に戻ったという可能性も考えられます。
『ゲド戦記』は、心の闇と向き合い、真の自分を見つけるというテーマが根底にある作品です。原作との違いがあるものの、宮崎吾朗監督ならではの解釈が施されており、作品を深く考察することでより楽しむことができます。映画と原作の違いを踏まえながら、自分なりの解釈を見つけてみるのも面白いかもしれませんね。
今日も最後までご覧いただいてありがとうございます。
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